■□■□北海道のカニの歴史■□■□

北の美味いをお届けする【北加伊堂】
【江戸時代】
江戸後期の頃、すでに蝦夷(北海道)までの北前船の出入り活況を呈したころ高田屋嘉兵衛という海運業者は、日本人で初めて北方地域の択捉島との航路を開き、漁場を開拓した。これによって、北海道及び千島諸島は大きく飛躍することになり、根室の海洋王国の基盤を築き上げた先駆者と言えます。
北方四島の海域は、千島海流(寒流)と日本海流(暖流)の交錯点にあたり、豊富な魚介類に恵まれ、漁業生産基地として開発されていきました。 択捉島は、鮭・鱒、鰊、鰯、鯨、猟虎、縞鼠の漁場で、毛皮、鮭鱒は燈油と肥料原料に用い、一部は塩蔵して食用とされ、本州に搬出されて行った。

【明治時代】
明治に入って、石狩町に官営によるサケ缶詰工場が建設され製造が開始され、これを契機に明治12年、択捉島にも初めて缶詰所ができが、その後、数年で官営による缶詰工場は閉鎖するが、藤野辰次郎がその工場を払い下げを受け、その経営に移った。日清戦争を契機に、缶詰は軍事品として使用され始め、漸く民間の企業熱が高まり、藤野辰次郎、碓氷勝三郎、三井宅市、和泉庄蔵等も、水産物缶詰工場を創設するに至った。明治も30年代に入ると、根室沿岸のサケ・マス漁は急速に衰退の一途を辿るようになり、窮地に立たされた沿岸の缶詰業者は、新たな缶詰原料を求めていた。そのころ、国後島、択捉島沿岸は、蟹の豊かな漁場であったが、鮭の建網にかかった蟹を投棄されていた。これを見て、このタラバガニを缶詰としての利用価値を見出した。只、カニを缶詰にすると肉質の酸化によって起こす黒変で悩まされ続け、これを解決したのが、碓氷勝三郎、和泉庄蔵であった。その方法というのは、硫酸紙に包みこんで、缶の内面と肉質を遮断するシンプルな方法ではあったが、当時しては画期的な発見だった。明治38年に入って初めて着業することになり、外国まで輸出できるまでに至り、明治37年の日露戦争の好機もあってタラバガニ缶詰は絹と並んで外貨を稼ぐ花形産業へと成長していった。明治44年には、千島を含む根室地方の工場は49工場までに至った。缶詰工場のうち約7割が北方四島に設置され、その内約8割が国後島に集中していた。日清戦争・日露戦争の両戦争を経て、更に飛躍的な発展をみせた。

【大正時代】
大正に入って、缶詰機械は自動化が進み、生産性が上がり、第一次世界大戦の勃発で工場生産は更に拍車がかかり、発展を遂げることになる。

【昭和時代】
その後、昭和16年からの太平洋戦争の勃発で生産は激減し、昭和20年の第二次世界大戦の敗戦によって、北方四島を失い、更にこの年、マッカ−サ−・ラインの制定で、漁業領海12カイリ内で自由操業に限定されて外海から締めだされた。世界三大漁場の一角を占める四島周辺の好漁場を失い、漁業者は、漁業資材、漁網、燃油等の調達に苦慮していた時代でもあった。この当時(昭和20年)の北方四島の推計人口は3,082世帯、16,505人であった。根室の缶詰業界は、北方四島の喪失によって致命的な打撃を受け、特に国後島に主要工場(12工場)の多く有していたタラバガニ缶詰の影響は大きく、根室における缶詰工場は5工場を数えるのみとなった。昭和21年、根室支庁管内のカニ刺し網着業船は僅か6隻だったが、、翌年22年には22隻になり、以来、毎年増加し、昭和25年114隻を数えるに至った。この数は、全道カニ刺し網着業船212隻の過半数を占め、次に多い宗谷地方の66隻を遥かに上回る。根室は文字通りのカニ生産王国となった。こうした中で、漁獲せんがために、旧ソ連領海主張の20カイリを超えて操業するようになり、拿捕の危険を侵して四島周辺海域に出てカニ漁業の拡大であった。その結果、昭和21年の拿捕は5隻だったが、カニ漁業を中心に昭和24年は24隻、25年には48隻を数えるに及んだ。この背景には、昭和24年から貿易が再開され、カニ缶詰がフランスを中心に欧州へ輸出され、大いにドルを稼ぎ、缶詰業界とともにカニ漁業は隆盛を極め、一時の戦前の最盛期の漁獲をしのぐ勢いとなった。缶詰工場は昭和30年にかけて根室地方に工場建設され、操業した缶詰工場は27会社。大手のものは分工場を含めると総工場数は30工場以上に達した。しかし、このカニ漁業も衰退の一途を辿ることになる。それも限られた狭い漁場にあまりにも多くの漁船がひしめき合い操業、漁獲競争に転じたために資源は著しく減少し、年々漁獲量は落ち込だ。カニ業界は危機に直面し、再編成が求められることになり、企業合併や幾度もの減船が強いられ、やがて沿岸の共同漁業権内のカニ漁業を残して、その勇姿を誇った沖合いのカニ漁業は消えることになる。決定的となったのは、昭和52年の200カイリ漁業専管水域のうねりによるものであった。タラバニの漁場が旧ソ連邦の200カイリ以内のために、その主導権が旧ソ連邦側にあることからタラバガニの漁獲量はゼロとなった。業界の仕組みにはこのような背景があった。「カニ業界は、缶詰会社が自ら船を私有して操業する「自営船方式」と漁業者自体の着業と二つに分けられていた。漁業者自体といっても、その多くは缶詰会社との紐つきにあって、缶詰会社の資材などの仕込みで経営していた。つまり、水揚げの減少は漁業者のみならず缶詰業者を直撃、いわば共倒れを招く仕組みにあった。
百年に及ぶタラバガニ漁の終えんを迎え、 根室の缶詰業界は、撤退、倒産によって2社を残し、姿を消していった。
一方、少数の中小水産加工者が近海で漁獲される蟹を取り扱い、ボイル品・冷凍品で国内発送を行っていた。今では、梱包に発泡スチロ−ルが使われているが、この当時は木箱が用いられ、輸送手段には旧国鉄の貨車が主流でだった。
航空便、運送会社の保冷車の保有台数の増加によって生きたまま発送する手段が確立され、昭和50年前後。それによって蟹に対する高級食材として広がった。

【現代】
ゴルバチョフソ連大統領のペレストロイカ政策によって、「独立採算制によって企業の自主性を強化し、経済の活動を活性化しようとする政策」が進められたが、平成3年4月、ソビエト連邦が崩壊によって、更に経済の混乱を招いた。一方、サハリン、北方四島周辺の地区は、水産物を資源とした日本との輸出を目指した。この年、根室に戦後初、ロシア貨物船が蟹を積んで陸揚げされた。週2回の入札から始まり、今や毎日のように陸揚げされるようになった。根室市をはじめ釧路市、網走市、紋別市、稚内市から小樽市までの港に陸揚げされ、北海道の蟹業界はロシアの輸入に依存している状態である。最近、乱獲やロシア政府の取り締まり規制によって、平成11年より輸入はやや陰りがでてきていることから、漁獲の不透明が続いている。


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